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気づいたら後輩に飼われてた
気づいたら後輩に飼われてた
Author: 海野雫

第一話 徹夜明け

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-03-01 05:48:09

 オフィスは静寂に包まれていた。

 カタカタカタカタ。

 聞こえてくるのは、自分がキーボードを叩く音だけ。

 直はモニターから目を離し、伸びをした。首を回すと、鈍い音がした。肩も背中もバキバキだった。目頭を親指で押すと、じんわりと痛い。

 それまで画面に集中していたせいで気づかなかったが、手を止めた途端、妙に肌寒かった。

「……なんか寒くね?」

 手のひらで二の腕をさする。空調が止まっている。

 周りを見渡した。直の席の上以外、照明はすべて落ちていた。フロアは真っ暗で、窓の外のビルの灯りだけが、かろうじてデスクの輪郭を浮かべている。他の部署のフロアも、とっくに無人だろう。

 壁の時計に目をやって、血の気が引いた。

「やべっ……終電、終わってる」

 がくりと項垂れた。

 アーク・ブリッジ株式会社は二十時退社を推奨している。実際、ほとんどの社員はその時間には帰る。優秀なやつなら十八時台に颯爽と退社していく。

 それなのに自分は終電どころか、終電すら逃した。

 大きなため息が、がらんとしたオフィスに響いた。誰にも聞かれないため息ほど、惨めなものはない。

 カプセルホテルか。ネットカフェか。――いや、もういっそ会社に泊まるか。どうせたまった仕事は減らない。

 開き直って、モニターに向き直った。

 キーボードを叩く指が、さっきより重く感じる。

 なんで俺だけこんなに必死なんだろう。案件の数は、たぶんみんなと同じぐらいのはずだ。なのに俺だけが毎晩、このフロアに取り残される。

 クライアントからの相談を断れない。ひとつひとつ丁寧にやろうとする。そのせいでメールの返信は後回しになり、夕方には提案書が手つかずで残る。そこから夜が始まる。

 わかってる。段取りが悪いんだ。

 わかってるけど、直せない。

 モニターの文字が滲んできた。瞼が重く、頭もぼんやりする。

 携帯を見た。未読のメールが十二件。会社のメールボックスにも未読のメールが十件以上たまっていた。

 クライアントの山田さんからの追加依頼、佐藤さんからの仕様変更の相談、営業資料のレビュー依頼。どれも「明日でいいですよ」と言ってくれているのに、どれも気になって手放せない。

 今やってしまわないと、明日に持ち越しになる。そうすれば、また仕事がたまる。

 わかっているのに、急に眠気が襲ってきた。瞼が重い。

 ――もう限界だ。十分だけ。十分だけ寝よう。

 机にうつ伏せになった。腕を枕にして目を閉じる。デスクの硬さが額に当たる。こんな姿勢で寝たら首をやるな、と思った瞬間、意識はあっけなく闇に沈んでいった。

 コーヒーの匂いがした。

 誰かが近くにいる気配がする。あたたかくて、どこか懐かしい。

 ああ、そうだ。こんな朝が、あったな。

 朝ごはんを作ってくれる誰かがいたころ。たった二か月で終わったけど、前もその前も長くて三か月だった。

 告白されて、断れなくて、付き合って。「私のこと好きじゃないでしょ」と言われて、終わる。毎回そうだった。

 俺って、本気で誰かを好きになったこと、あったっけ。

 ――二十七にもなって、初恋もまだとか、笑えないな。

 まあいいか。どうせ今は、ひとりだ。

 肩を揺さぶられている。やめろって、まだ寝かせてくれ――。

「先輩」

 低い声が、鼓膜を揺らした。

 男の声だ。

 ゆっくり瞼を持ち上げると、すぐ目の前に、整った顔があった。

「うおっ……!」

 驚きのあまり、椅子ごと後ろにのけぞった。心臓がうるさい。

「なっ……なんだお前!」

「なんだお前、じゃないですよ」

 神谷理人。二年後輩の、同じ営業二課。切れ長の目が、静かにこちらを見ている。鼻筋の通った端正な顔は、寝起きの頭にはいささか刺激が強い。

「先輩、会社に泊まったんですか」

 責めるような口調ではなかった。ただ、静かに確認している。それがかえって居心地悪い。

「……気づいたら終電終わってたんだよ」

「泊まり込みは禁止ですよ」

「知ってるけど……帰る手段なかったんだよ」

「タクシーという手段はあったはずですけど」

「……金ねえんだよ」

 理人の目が、ほんの少し細くなった。呆れなのか、心配なのか、その無表情からは読みきれない。

「はい、これ」

 差し出されたのは、紙カップのコーヒーだった。湯気が立ち昇って、ふわりと香りが広がる。

「あと、朝食です」

 コーヒーの横に、ベーカリーの紙袋が置かれた。紙袋の口から覗くと、中にはサンドイッチが入っていた。

「……え。いいのか?」

「どうせ朝食、食べてないでしょう。毎日」

「うっ……」

 図星だった。毎朝コアタイムぎりぎりまで寝て、朝食は抜き。昼もまともに取れないことが多い。

「……悪いな」

「いいですよ」

 理人がふっと目元を緩めた。無表情が多いぶん、その一瞬の変化がやけに目に残る。長い睫毛が窓からの光を受けて、薄い影を頬に落としていた。

 その美しさに思わず見惚れてしまった。

 やばい。男相手になに見てんだ。寝ぼけてるにもほどがある。

 直は両手で頬を叩いて、目を覚ました。

「俺も一緒に食べていいですか」

「……え? ああ、いいけど」

 理人は直の隣の席から椅子を引っ張ってきて、当たり前のように座った。距離が近い。肘がぶつかりそうなぐらい近い。

「ここで食うの?」

「一緒に食べたほうがいいでしょう」

 理人は自分のサンドイッチの包みを開けた。直も諦めて紙袋に手を伸ばした。

 雑穀入りのハードパンに、シャキッとしたレタスとにんじん、サラダチキンに卵。酢玉ねぎのアクセントが効いている。シンプルな構成なのに、口に入れた瞬間、目が覚めた。

「……うまっ。なにこれ」

「気に入りましたか」

「うまいなこれ。どこの?」

「家の近くのベーカリーです。ハードパンがいいんですよ」

「へえ。俺パン好きなんだよな。今度買いに行こうかな」

「案内しますよ。ただ、閉店早いんで」

「……どのぐらい?」

「十八時です」

 十八時。直がまだオフィスでメールと格闘している時間だった。

「……努力する」

「してください。じゃないと、案内できませんから」

 淡々と返されて、言葉に詰まった。でも、嫌な感じはしなかった。

 ひとりで食べるコンビニのおにぎりとは、なにかが違う。パンのうまさだけじゃない。隣に誰かがいて、同じものを食べている。ただそれだけのことが、朝の空気を変えている。

 ――あれ。誰かと一緒に朝ごはん食べるの、いつ振りだろう。

 思い出そうとして、思い出せなかった。

 そのとき、オフィスの扉が開いた。

 びっくりして振り返ると、警備員が立っていた。

「わっ……こんな時間にいらっしゃるとは」

「すみません、昨日終電逃して、そのまま……」

「ああ、そうでしたか。いやあ、ここの会社さんは大体八時頃の出社でしょう? この時間にフロアに人がいたことがないもので、驚きました」

 ――この時間に、人がいたことがない。つまり、七時半にオフィスにいること自体が異常なのだ。泊まり込んだ自分はもちろん。

 ちらりと隣を見た。理人は何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいる。この男は自主的に七時半に出社しているのだ。同じ会社の、同じ部署で。

「あの、昨夜空調が止まってたんですけど……」

「ああ、二十四時で自動停止です。そんな時間まで残られる方、普通はいらっしゃらないので」

 普通はいない。

 わかっていたことだ。でも、他人の口から聞くのは堪えた。

「特に変わったことがなければ、これで」

「はい……ありがとうございます」

 警備員が去った。扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。

「……やっぱ俺だけなんだな」

 つぶくと、理人がコーヒーのカップを置いた。

「この会社、遅くまで残る人ほとんどいませんよ」

「いや……営業はこんなもんだろ」

「違います」

 短く否定された。

「先輩が抱えすぎです」

 返す言葉がなかった。理人の声に苛立ちはない。ただの事実を述べている、という温度だった。それが余計にきつい。

 朝日がオフィスの窓から差し込んでいた。整然と並んだ無人のデスクが、白い光に照らされている。ここに毎晩ひとりで残っているのは、自分だけだ。改めてそう思い知らされた。

「はよーっす」

 オフィスの扉が開いて、聞き慣れた声が響いた。

 水城遼。直より二つ上の先輩で、同じ営業二課。ドライだが面倒見は悪くない、飲みに行く仲の先輩だ。

「あれ? 夏目、今日やけに早いじゃん」

「水城さん、おはようございます」

 直が口を開くより先に、理人が立ち上がって挨拶した。

「ああ、神谷か。おはよう。――って、なに。お前らふたりで朝飯食ってんの?」

 水城が足を止めた。デスクの上のコーヒーとサンドイッチの残骸を見て、目を細める。

「そんなに仲よかったっけ、お前ら」

「別に、たまたまだよ。神谷が早く来てて――」

「ええ、仲いいですよ。俺たち」

 理人がさらりと言った。そして当然のように、直の肩に手を置いてきた。

「ちょ……近いって」

 反射的に身を引こうとしたが、理人の手は動かなかった。コーヒーの匂いに混じって、かすかにシャンプーの香りがした。思ったより近くに理人の顔があり、鼻先が触れそうな距離だった。形のいい唇がほんのり潤んでいて、思わずドキッとする。

 ――いやいや、待て。なにを見てるんだ俺は。

「お前ら、距離バグってない?」

 水城が腕を組んだ。呆れた顔をしている。

「バグってねえよ」

「バグってるだろ。後輩が先輩の肩に手置いて朝飯一緒って、普通じゃないからな」

「水城さん、考えすぎですよ」

 理人はすました顔でサンドイッチの包み紙を片付けていた。なにが「考えすぎ」なのか、直にはよくわからなかった。

「まあいいけど。始業前に片付けとけよ」

「はい」

 理人がようやく手を離した。離れた途端、肩のあたりがすっと冷えた。別にさみしいわけじゃない。ただ、手のひらの温度が残っているのが妙に気になった。

 水城が自分の席に向かう。三歩ほど歩いたところで、ちらりとこちらを振り返った。

「……つーか夏目、お前シャツしわくちゃだな。まさか泊まったのか?」

「…………」

 沈黙が答えだった。

「お前なあ……。またか」

「また、って。初めてだよ泊まったのは……」

「つーか、終電までいるのは毎日だろ。いつかこうなると思ってた」

 水城はそれだけ言って、席についた。

 直は小さくなりながら、残りのサンドイッチを口に押し込んだ。理人をちらりと見ると、目が合った。なにか言いたげな目だった。

「……なんだよ」

「別に」

 理人はコーヒーを一口啜り、前を向いた。

「先輩」

 水城が席について画面を立ち上げているのをぼんやり見ていると、理人がまっすぐこちらを見た。

「先輩って、生活破綻してますよね」

「……急だな」

「毎日終電。朝食抜き。シャツにアイロンかかってない。寝癖ついてる」

 一つずつ指折り数えられた。全部事実だから、一つも否定できない。

「部屋の掃除も、してないでしょう」

「……悪いかよ」

「食事はコンビニですか」

 長い前髪の隙間から覗く目がじっとこちらを見ている。目を合わせていられなくて、視線を逸らした。

「……毎日じゃねえよ」

「毎日でしょう」

「…………」

 答えられずにいると、理人が黙った。

 その沈黙が、なにより怖かった。

「ダメです」

 低い声だった。冗談で言っているんじゃないと、空気でわかる。

「食事を摂らないから、疲れが抜けないんです。睡眠も浅くなる。仕事の効率も落ちる。悪循環ですよ」

「そ、それは……わかってるけど……」

「わかってないから、こうなってるんです」

 ぐうの音も出なかった。少し離れた席で水城が何事かとこちらを伺っていたが、直はもう気にする余裕がなかった。

 理人が小さく息を吐いた。それから、直の目をまっすぐ見た。

「だから、これから俺が先輩を管理します」

「……は?」

「生活管理です。食事。睡眠。仕事の段取り。全部」

「いやいやいや。管理って、なんでお前にそこまで――」

「必要だからです」

 遮るように、短く言い切られた。

 理人は拳で、とん、と自分の胸を叩いた。

「任せてください」

 自信に満ちた声。有無を言わせない目。

 反論しようとして、口を開いたが言葉がでなかった。こういうとき断れないのが、自分の悪い癖だと知っている。でも今回は、断れないのとは少し違う気がした。

 理人がなぜそこまで言うのか。後輩が先輩の生活を管理するなんて、普通はしない。それは水城が指摘した通り「普通じゃない」ことのはずだ。

 なのに、理人の顔にはためらいがなかった。

 少し離れた席で、水城がこちらをちらりと見ていた。腕を組んで、なにか言いたげな顔をしている。目が合うと、水城は小さく首を振って、画面に向き直った。

 管理、という言葉が、やけに耳に残った。

 世話を焼かれているだけだ。後輩が先輩を心配してくれている。――たぶん、それだけだ。

 その「たぶん」が、少しだけ引っかかった。

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