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オフィスは静寂に包まれていた。
カタカタカタカタ。
聞こえてくるのは、自分がキーボードを叩く音だけ。
直はモニターから目を離し、伸びをした。首を回すと、鈍い音がした。肩も背中もバキバキだった。目頭を親指で押すと、じんわりと痛い。
それまで画面に集中していたせいで気づかなかったが、手を止めた途端、妙に肌寒かった。
「……なんか寒くね?」
手のひらで二の腕をさする。空調が止まっている。
周りを見渡した。直の席の上以外、照明はすべて落ちていた。フロアは真っ暗で、窓の外のビルの灯りだけが、かろうじてデスクの輪郭を浮かべている。他の部署のフロアも、とっくに無人だろう。
壁の時計に目をやって、血の気が引いた。
「やべっ……終電、終わってる」
がくりと項垂れた。
アーク・ブリッジ株式会社は二十時退社を推奨している。実際、ほとんどの社員はその時間には帰る。優秀なやつなら十八時台に颯爽と退社していく。
それなのに自分は終電どころか、終電すら逃した。
大きなため息が、がらんとしたオフィスに響いた。誰にも聞かれないため息ほど、惨めなものはない。
カプセルホテルか。ネットカフェか。――いや、もういっそ会社に泊まるか。どうせたまった仕事は減らない。
開き直って、モニターに向き直った。
キーボードを叩く指が、さっきより重く感じる。
なんで俺だけこんなに必死なんだろう。案件の数は、たぶんみんなと同じぐらいのはずだ。なのに俺だけが毎晩、このフロアに取り残される。
クライアントからの相談を断れない。ひとつひとつ丁寧にやろうとする。そのせいでメールの返信は後回しになり、夕方には提案書が手つかずで残る。そこから夜が始まる。
わかってる。段取りが悪いんだ。
わかってるけど、直せない。
モニターの文字が滲んできた。瞼が重く、頭もぼんやりする。
携帯を見た。未読のメールが十二件。会社のメールボックスにも未読のメールが十件以上たまっていた。
クライアントの山田さんからの追加依頼、佐藤さんからの仕様変更の相談、営業資料のレビュー依頼。どれも「明日でいいですよ」と言ってくれているのに、どれも気になって手放せない。
今やってしまわないと、明日に持ち越しになる。そうすれば、また仕事がたまる。
わかっているのに、急に眠気が襲ってきた。瞼が重い。
――もう限界だ。十分だけ。十分だけ寝よう。
机にうつ伏せになった。腕を枕にして目を閉じる。デスクの硬さが額に当たる。こんな姿勢で寝たら首をやるな、と思った瞬間、意識はあっけなく闇に沈んでいった。
◆
コーヒーの匂いがした。
誰かが近くにいる気配がする。あたたかくて、どこか懐かしい。
ああ、そうだ。こんな朝が、あったな。
朝ごはんを作ってくれる誰かがいたころ。たった二か月で終わったけど、前もその前も長くて三か月だった。
告白されて、断れなくて、付き合って。「私のこと好きじゃないでしょ」と言われて、終わる。毎回そうだった。
俺って、本気で誰かを好きになったこと、あったっけ。
――二十七にもなって、初恋もまだとか、笑えないな。
まあいいか。どうせ今は、ひとりだ。
肩を揺さぶられている。やめろって、まだ寝かせてくれ――。
「先輩」
低い声が、鼓膜を揺らした。
男の声だ。
ゆっくり瞼を持ち上げると、すぐ目の前に、整った顔があった。
「うおっ……!」
驚きのあまり、椅子ごと後ろにのけぞった。心臓がうるさい。
「なっ……なんだお前!」
「なんだお前、じゃないですよ」
神谷理人。二年後輩の、同じ営業二課。切れ長の目が、静かにこちらを見ている。鼻筋の通った端正な顔は、寝起きの頭にはいささか刺激が強い。
「先輩、会社に泊まったんですか」
責めるような口調ではなかった。ただ、静かに確認している。それがかえって居心地悪い。
「……気づいたら終電終わってたんだよ」
「泊まり込みは禁止ですよ」
「知ってるけど……帰る手段なかったんだよ」
「タクシーという手段はあったはずですけど」
「……金ねえんだよ」
理人の目が、ほんの少し細くなった。呆れなのか、心配なのか、その無表情からは読みきれない。
「はい、これ」
差し出されたのは、紙カップのコーヒーだった。湯気が立ち昇って、ふわりと香りが広がる。
「あと、朝食です」
コーヒーの横に、ベーカリーの紙袋が置かれた。紙袋の口から覗くと、中にはサンドイッチが入っていた。
「……え。いいのか?」
「どうせ朝食、食べてないでしょう。毎日」
「うっ……」
図星だった。毎朝コアタイムぎりぎりまで寝て、朝食は抜き。昼もまともに取れないことが多い。
「……悪いな」
「いいですよ」
理人がふっと目元を緩めた。無表情が多いぶん、その一瞬の変化がやけに目に残る。長い睫毛が窓からの光を受けて、薄い影を頬に落としていた。
その美しさに思わず見惚れてしまった。
やばい。男相手になに見てんだ。寝ぼけてるにもほどがある。
直は両手で頬を叩いて、目を覚ました。
「俺も一緒に食べていいですか」
「……え? ああ、いいけど」
理人は直の隣の席から椅子を引っ張ってきて、当たり前のように座った。距離が近い。肘がぶつかりそうなぐらい近い。
「ここで食うの?」
「一緒に食べたほうがいいでしょう」
理人は自分のサンドイッチの包みを開けた。直も諦めて紙袋に手を伸ばした。
雑穀入りのハードパンに、シャキッとしたレタスとにんじん、サラダチキンに卵。酢玉ねぎのアクセントが効いている。シンプルな構成なのに、口に入れた瞬間、目が覚めた。
「……うまっ。なにこれ」
「気に入りましたか」
「うまいなこれ。どこの?」
「家の近くのベーカリーです。ハードパンがいいんですよ」
「へえ。俺パン好きなんだよな。今度買いに行こうかな」
「案内しますよ。ただ、閉店早いんで」
「……どのぐらい?」
「十八時です」
十八時。直がまだオフィスでメールと格闘している時間だった。
「……努力する」
「してください。じゃないと、案内できませんから」
淡々と返されて、言葉に詰まった。でも、嫌な感じはしなかった。
ひとりで食べるコンビニのおにぎりとは、なにかが違う。パンのうまさだけじゃない。隣に誰かがいて、同じものを食べている。ただそれだけのことが、朝の空気を変えている。
――あれ。誰かと一緒に朝ごはん食べるの、いつ振りだろう。
思い出そうとして、思い出せなかった。
そのとき、オフィスの扉が開いた。
びっくりして振り返ると、警備員が立っていた。
「わっ……こんな時間にいらっしゃるとは」
「すみません、昨日終電逃して、そのまま……」
「ああ、そうでしたか。いやあ、ここの会社さんは大体八時頃の出社でしょう? この時間にフロアに人がいたことがないもので、驚きました」
――この時間に、人がいたことがない。つまり、七時半にオフィスにいること自体が異常なのだ。泊まり込んだ自分はもちろん。
ちらりと隣を見た。理人は何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいる。この男は自主的に七時半に出社しているのだ。同じ会社の、同じ部署で。
「あの、昨夜空調が止まってたんですけど……」
「ああ、二十四時で自動停止です。そんな時間まで残られる方、普通はいらっしゃらないので」
普通はいない。
わかっていたことだ。でも、他人の口から聞くのは堪えた。
「特に変わったことがなければ、これで」
「はい……ありがとうございます」
警備員が去った。扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
「……やっぱ俺だけなんだな」
つぶくと、理人がコーヒーのカップを置いた。
「この会社、遅くまで残る人ほとんどいませんよ」
「いや……営業はこんなもんだろ」
「違います」
短く否定された。
「先輩が抱えすぎです」
返す言葉がなかった。理人の声に苛立ちはない。ただの事実を述べている、という温度だった。それが余計にきつい。
朝日がオフィスの窓から差し込んでいた。整然と並んだ無人のデスクが、白い光に照らされている。ここに毎晩ひとりで残っているのは、自分だけだ。改めてそう思い知らされた。
◆
「はよーっす」
オフィスの扉が開いて、聞き慣れた声が響いた。
水城遼。直より二つ上の先輩で、同じ営業二課。ドライだが面倒見は悪くない、飲みに行く仲の先輩だ。
「あれ? 夏目、今日やけに早いじゃん」
「水城さん、おはようございます」
直が口を開くより先に、理人が立ち上がって挨拶した。
「ああ、神谷か。おはよう。――って、なに。お前らふたりで朝飯食ってんの?」
水城が足を止めた。デスクの上のコーヒーとサンドイッチの残骸を見て、目を細める。
「そんなに仲よかったっけ、お前ら」
「別に、たまたまだよ。神谷が早く来てて――」
「ええ、仲いいですよ。俺たち」
理人がさらりと言った。そして当然のように、直の肩に手を置いてきた。
「ちょ……近いって」
反射的に身を引こうとしたが、理人の手は動かなかった。コーヒーの匂いに混じって、かすかにシャンプーの香りがした。思ったより近くに理人の顔があり、鼻先が触れそうな距離だった。形のいい唇がほんのり潤んでいて、思わずドキッとする。
――いやいや、待て。なにを見てるんだ俺は。
「お前ら、距離バグってない?」
水城が腕を組んだ。呆れた顔をしている。
「バグってねえよ」
「バグってるだろ。後輩が先輩の肩に手置いて朝飯一緒って、普通じゃないからな」
「水城さん、考えすぎですよ」
理人はすました顔でサンドイッチの包み紙を片付けていた。なにが「考えすぎ」なのか、直にはよくわからなかった。
「まあいいけど。始業前に片付けとけよ」
「はい」
理人がようやく手を離した。離れた途端、肩のあたりがすっと冷えた。別にさみしいわけじゃない。ただ、手のひらの温度が残っているのが妙に気になった。
水城が自分の席に向かう。三歩ほど歩いたところで、ちらりとこちらを振り返った。
「……つーか夏目、お前シャツしわくちゃだな。まさか泊まったのか?」
「…………」
沈黙が答えだった。
「お前なあ……。またか」
「また、って。初めてだよ泊まったのは……」
「つーか、終電までいるのは毎日だろ。いつかこうなると思ってた」
水城はそれだけ言って、席についた。
直は小さくなりながら、残りのサンドイッチを口に押し込んだ。理人をちらりと見ると、目が合った。なにか言いたげな目だった。
「……なんだよ」
「別に」
理人はコーヒーを一口啜り、前を向いた。
◆
「先輩」
水城が席について画面を立ち上げているのをぼんやり見ていると、理人がまっすぐこちらを見た。
「先輩って、生活破綻してますよね」
「……急だな」
「毎日終電。朝食抜き。シャツにアイロンかかってない。寝癖ついてる」
一つずつ指折り数えられた。全部事実だから、一つも否定できない。
「部屋の掃除も、してないでしょう」
「……悪いかよ」
「食事はコンビニですか」
長い前髪の隙間から覗く目がじっとこちらを見ている。目を合わせていられなくて、視線を逸らした。
「……毎日じゃねえよ」
「毎日でしょう」
「…………」
答えられずにいると、理人が黙った。
その沈黙が、なにより怖かった。
「ダメです」
低い声だった。冗談で言っているんじゃないと、空気でわかる。
「食事を摂らないから、疲れが抜けないんです。睡眠も浅くなる。仕事の効率も落ちる。悪循環ですよ」
「そ、それは……わかってるけど……」
「わかってないから、こうなってるんです」
ぐうの音も出なかった。少し離れた席で水城が何事かとこちらを伺っていたが、直はもう気にする余裕がなかった。
理人が小さく息を吐いた。それから、直の目をまっすぐ見た。
「だから、これから俺が先輩を管理します」
「……は?」
「生活管理です。食事。睡眠。仕事の段取り。全部」
「いやいやいや。管理って、なんでお前にそこまで――」
「必要だからです」
遮るように、短く言い切られた。
理人は拳で、とん、と自分の胸を叩いた。
「任せてください」
自信に満ちた声。有無を言わせない目。
反論しようとして、口を開いたが言葉がでなかった。こういうとき断れないのが、自分の悪い癖だと知っている。でも今回は、断れないのとは少し違う気がした。
理人がなぜそこまで言うのか。後輩が先輩の生活を管理するなんて、普通はしない。それは水城が指摘した通り「普通じゃない」ことのはずだ。
なのに、理人の顔にはためらいがなかった。
少し離れた席で、水城がこちらをちらりと見ていた。腕を組んで、なにか言いたげな顔をしている。目が合うと、水城は小さく首を振って、画面に向き直った。
管理、という言葉が、やけに耳に残った。
世話を焼かれているだけだ。後輩が先輩を心配してくれている。――たぶん、それだけだ。
その「たぶん」が、少しだけ引っかかった。
理人に「管理」を宣言されたその日から、早速テコ入れが入った。 夕方五時過ぎ。直がまだモニターに向かっていると、真横に人の気配がした。「先輩、帰る時間です」「は? まだ仕事中なんだけど」「徹夜の分は朝七時から出勤した扱いです。八時間超えてますよ」 理人は腕を組み、じっと見下ろしている。前髪の隙間から覗く目が動かない。逃げ場がなかった。「あとちょっとだけ……」「ダメです」 短い否定。そして、絶対だった。「……わかったよ」 渋々、帰り支度を始めた。本当はクライアントからのメールに返信したい。明日の提案書も手直ししたい。けれど理人の様子を見る限り、粘っても無駄だ。 帰り支度が整うと、理人は直の腕を掴んだ。「お疲れさまでした」 理人が課内に声をかける。直も仕方なく「お疲れっした」と挨拶した。周囲から驚きの視線が刺さった。それもそうだ。いつも誰よりも遅く帰る男が、まだ明るいうちにオフィスを出ようとしている。 エレベーター、エントランス、駅まで。理人は腕を離さなかった。「いつまで掴んでんだよ」「先輩が電車に乗るまでです」 有言実行だった。直を車両に押し込むと、理人はホームから小さく手を振った。ドアが閉まる。「明日は九時出勤でお願いします」 文句をいう間もなかった。 結局、次の日も起きられなかった。いつも通りコアタイムぎりぎりの十時五十五分に出社した。「ざいまーす……」 営業二課の島に向かうと、理人がこちらを向いた。目が笑っていない。「先輩。九時って、いいましたよね」「ああ……そうだっけ」「そうだっけ、じゃありません」 短く切られた。怒鳴るわけでもない。ただ、静かに事実を突きつける。それが一番堪えた。「明日から朝、電話します」「は? なんで」「起きられないなら、起こします。席についてください」 反論の余地がなかった。周囲の席からちらちら視線を感じる。直は舌打ちを飲み込んで、席に座った。 朝イチで小言を食らって、仕事に集中できない。苛立ちが先に立って、メールを開いても頭に入らない。返信しなければいけないクライアントからの問い合わせが三件、提案書の修正依頼が一件。どれも手をつけられないまま、時間だけが過ぎた。 気づけば昼になっていた。出社してから一時間。なにも片付いていない。情けなさすぎて、ため息が出た。 昼ごはんを
オフィスは静寂に包まれていた。 カタカタカタカタ。 聞こえてくるのは、自分がキーボードを叩く音だけ。 直はモニターから目を離し、伸びをした。首を回すと、鈍い音がした。肩も背中もバキバキだった。目頭を親指で押すと、じんわりと痛い。 それまで画面に集中していたせいで気づかなかったが、手を止めた途端、妙に肌寒かった。「……なんか寒くね?」 手のひらで二の腕をさする。空調が止まっている。 周りを見渡した。直の席の上以外、照明はすべて落ちていた。フロアは真っ暗で、窓の外のビルの灯りだけが、かろうじてデスクの輪郭を浮かべている。他の部署のフロアも、とっくに無人だろう。 壁の時計に目をやって、血の気が引いた。「やべっ……終電、終わってる」 がくりと項垂れた。 アーク・ブリッジ株式会社は二十時退社を推奨している。実際、ほとんどの社員はその時間には帰る。優秀なやつなら十八時台に颯爽と退社していく。 それなのに自分は終電どころか、終電すら逃した。 大きなため息が、がらんとしたオフィスに響いた。誰にも聞かれないため息ほど、惨めなものはない。 カプセルホテルか。ネットカフェか。――いや、もういっそ会社に泊まるか。どうせたまった仕事は減らない。 開き直って、モニターに向き直った。 キーボードを叩く指が、さっきより重く感じる。 なんで俺だけこんなに必死なんだろう。案件の数は、たぶんみんなと同じぐらいのはずだ。なのに俺だけが毎晩、このフロアに取り残される。 クライアントからの相談を断れない。ひとつひとつ丁寧にやろうとする。そのせいでメールの返信は後回しになり、夕方には提案書が手つかずで残る。そこから夜が始まる。 わかってる。段取りが悪いんだ。 わかってるけど、直せない。 モニターの文字が滲んできた。瞼が重く、頭もぼんやりする。 携帯を見た。未読のメールが十二件。会社のメールボックスにも未読のメールが十件以上たまっていた。 クライアントの山田さんからの追加依頼、佐藤さんからの仕様変更の相談、営業資料のレビュー依頼。どれも「明日でいいですよ」と言ってくれているのに、どれも気になって手放せない。 今やってしまわないと、明日に持ち越しになる。そうすれば、また仕事がたまる。 わかっているのに、急に眠気が襲ってきた。瞼が重い。 ――もう限界だ。十分だけ